ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー4【近世以降からセンチメンタリズム】

ヨーロッパ宝飾芸術の源流をたどると、世界の宝飾芸術が文化と共に変化を遂げてゆくドラマチックな過程が浮かび上がり、宝石は経年変化することなく残っている事実にも感動します。

世界の宝飾芸術をたどっていくため、シリーズとしてまとめました。

この他のシリーズはこちらからご覧ください

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー1【古典期から近世へ解説】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー2【中世からルネサンス】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー3【ネオ・クラシシズムまで】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー4【近世以降からセンチメンタリズム】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー5【ヴィクトリアン】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー6【ジュエリーデザイナー】

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ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー8【ジャポニズム】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー9【19世紀末から】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー10【エドワーディアンから】

この記事ではヨーロッパ宝飾芸術【近世以降からセンチメンタリズムの宝飾】についてすぐわかるヨーロッパの宝飾芸術 著者山口遼 発行 東京美術から引用して解説します。

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー4

Contents

第一帝政期 ナポレオン時代

自らをローマ帝国に擬して 皇帝と一族が先導した趣味と流行

2人の皇后とナポレオンによる宮廷様式

1799年末に第一執政となったナポレオンがフランス皇帝として君臨した時代、1804年から14年までを第一帝政政期と呼ぶ。装飾美術の面では、2人の皇后ジョセフィーヌとマリー・ルイーズを中心にしてナポレオン自身の好みも入れた、独特の「エンパイア様式」を発展させた時期である。

もともとナポレオン自身がエジプト遠征に考古学者や画家など175名を連れて行ったことからもわかるように、学問や文化への関心が高かった。

古代のモチーフと素材、カメオの採用

一介の士官から皇帝にまで成り上がったナポレオンにとって、文明とは古代のギリシャ・ローマを意味した。革命で散逸したルイ王朝時代の宝飾品はその多くが1800年初めには回収されており、ナポレオンと当時の皇后ジョセフィーヌとは、ニトなどの新しい宝石商の登用して、己の好みに合わせてその多くを作り直した。

それらのデザインの基礎となったのが、ギリシャ・ローマへの憧れと模倣であり、アンフォーラや鷹、盾、オークや月桂樹の葉模様、メアンダー文アーチといったモティーフが採用された。

ナポレオンは自らをローマ皇帝に擬するところが大きく、ジュエリーにも登場する彼の肖像は多くが古代ローマ風のものである。また皇帝としての威厳を保つために必要と考えたのか、堂々とした大きなセット物のジュエリー、パリチュールが多いのも特徴である。女性は髪を結い上げており、髪の前面を飾るティアラや飾り櫛がこのセットに含まれるのが普通であった。

素材面では、ギリシャ・ローマの古代のカメオやインタリオなどへ目が向き、ナポレオンは征服した各地に残る遺物を収奪する一方で、自ら指揮してパリに宝石彫刻学校を開設させた。こうして集められたカメオなどは、彼の好みによるティアラや飾り櫛、ネックレスなどに用いられ、新しいジュエリーとなっていった。

皇后がハプスブルグ家の皇女マリー・ルイーズに変わると、彼女の頭文字で人名や言葉を描くセンスメンタルなジュエリーも登場する。またナポレオンは征服したプロシアのベルリン・アイアンに感動し工場ごとパリ移転するなど、好きなものなら何でも手に入れる皇帝ならではの行動をしている。この時代のジュエリーは今にも残るものが極めて少ないが、近世の始まりに登場したひとつのパターンとして重要である。

ジョージアン

金の新しい細工技術が発展 長いヴィクトリア時代の助走期

世界初の産業革命が完成を見た時代

ジョージアンという時代区分は、建築や美術の世界では1714年のジョージ1世の即位から1830年のジョージ3世在位の1800年頃からヴィクトリアン女王即位の1837年頃までを指す。

英国では世界で最初の産業革命が完成しつつあり、王侯貴族や僧侶とは異なる新興の富裕階級が誕生した時期である。ジュエリーにおいては素材がきわめて希少で、それによる制約が加工技術やデザインに見られた。

素材不足を補った職人たちの努力

1820年頃までのジョージアンのジュエリーは、不思議なことに当時の交戦国、ナポレオン治下のフランスを模倣するだけのものであった。デザイン的にもギリシャ・ローマ美術の模倣か、月や星、花などの植物といった、名前こそ「ネオ・クラシシズム」と言われるが、内容的には変わり映えのしない安易な装飾モティーフだけが主流であった。

この時代のジュエリーの一番の特徴は素材、特に金とダイヤモンドの供給が異様なまでに乏しかったために、いかに少ない金で表面積が大きいジュエリーをつくるかに最大の努力が払われたことである。この結果として、細い金線を巻いて作った渦巻や花などのモチィーフや刺繍糸のような装飾を貼ったカンティーユや、金の板を帯状にしてU字型に打ち出し、それらを楕円に丸めてつなぎ合わせた、ジョージアン・チェーンが登場する。ダイヤモンドも希少で、英国王室と言えども王妃のティアラを作るには手持ちのダイヤモンドでは足りず、御用達宝石商から不足分を借用したほどである。ジョージアンのジュエリーがアンティーク市場でもきわめて少ないのは、素材不足を補うために既存の物を壊して素材を確保したためである。

夜の照明が不十分であったこともあり、宝石は光ることよりも色を楽しむことが重視され、石留めは裏面を完全に塞いだクローズド・セッティングが中心であった。時代のセンチメンタルな風潮を反映してか、握り合った手とか、重なったハートとかの愛情の確認の、さらには柳の木の下に置かれた骨壺といった死者を忘れないためのモティーフなどがこの頃に登場し、やがてヴィクトリア時代に一段と隆盛を見る。長いヴィクトリア時代の助走期、それがジョージアンであった。

センチメンタリズム

個人の心情を公に示す役割を果たした甘く愛らしいジュエリーの数々

他人の目を意識した感情表現の横行

19世紀の欧州、そのなかでも特に英国は、社会の底流のひとつとして強いセンチメンタリズムが流れていた。それは人間の本質から発したものであり、弱きものあるいは儚いものへの愛情であったのは当然であるが、この時代の特徴は社会に対する建前としての感情、つまり他人や社会から指揮を避けるのを目的としたこで、これ見よがしに近い感情の表現が横行した。

夫は妻を愛し妻は夫を尊敬し、死者や遠くに去った者を忘れず喪には慎ましく服すべし、などといった他人の目を意識した感情のことである。こうした感情表現はジュエリーの世界にも投影され、数多くの、今の感覚では甘すぎるとも言える表現のジュエリーが登場する。

デザインや石の頭文字が表す個人的感情

19世紀の欧州で生まれた数あるジュエリーのなかで、特にセンチメンタリズムを示しているのが文字遊びのジュエリーで、さまざまな宝石を並べてその石の名前の頭文字で言葉や名前を綴ったものである。歴史的には、ナポレオンの妃マリー・ルイーズは自分たちのいろいろな記念日等を宝石で並べて表したブレスレットを作ったのが最初とされる。戦争に疲れ果てて帰宅したナポレオンがお妃の作ったこのブレスレットを見て喜んだのかどうか記録にない。

この風習は戦争をしながらもフランスかぶれという不思議な態度をとり続けていた当時の英国上流階級に飛び火し、やがて英国で大きく流行する。

最も多いのがリガード・タイプのもので、これはルビー、エメラルド、ガーネット、アメシスト、ルビーそしてダイヤモンドを並べてREGARDという英語を表したものだ。凝視するとう意味から転じて、好意を持つことを表すもので、この種のジュエリーを贈られたなら、それは贈り手から好意を寄せられていることを示す。ほかに多いのはDEAREST(最愛の人)で、これはダイヤモンド、エメラルド、アメシスト、ルビー、エメラルド、サファイアそしてトパーズなどを並べる。このほかには、女性の名前を綴ったものがある。また、デザインやモティーフ、今から見れば恥ずかしくなるほど大甘なものが見られる。

愛情を示すデザインの他に、2本の手が支えるハート、忘れな草、有翼の天使像、リボン、三日月と星、いろいろな十字架などなど。今ならば、意匠登録を試みても公知のものとして登録拒否が確実なデザインのものが数多く作られた。デザインやモティーフ本来の意味を考えてのものではなく、単に、誰からも文句のでないデザイン要素として、こうしたものが使われたことがよくわかる。

まとめ

この記事ではヨーロッパ宝飾芸術【近世以降からセンチメンタリズム】について解説してきました。

次はヴィクトリアンの宝飾芸術ついて解説していきます。

 

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