ルビーの歴史を紐解くミャンマールビーは地球から生まれる奇跡の宝石

ルビーはとても歴史がある宝石で、旧石器時代には、集められていた形跡があると言われています。

200万年前の原人の化石と一緒にルビーが発見されていて、当時からルビーを集めていた形跡が見つかっています。

文明が発達する以前から大切にされていたことが分かります。

この記事では、ルビーの歴史を解説し、その成り立ちや過程を知ることによって、さらにルビーへの理解(希少・高価)を深めることができます。

ルビーは地球という大きな星のちいさな「かけら」

ルビーは、地球という大きな星の小さな「かけら」ともいえます。

46億年を超える地球の生い立ちでは、悠久の自然の創作が繰り返されています。

その自然造形物の一つが宝石ルビーです。

「宝」の「石」が価値を持つ理由

人とルビーの関りは、古くから始まっています。

その象徴的な石が「宝石ルビー」であり、美しく輝き、朽ちることなく、時を超えて人々を魅了してきました。

ルビーは、多くの奇跡的なイベントを経て、私達の手元に届きます。

地球の歴史は地層観察や石の観察(岩石・ルビーも)から解き明かしたことをたくさん紬ぎ合わせたストーリーです。

ルビーの本当の価値を知るためには、まず一歩目は、「地球誕生とルビーの歴史」を知ることです。

Contents

地球誕生とルビーの歴史

地球の成り立ちの歴史には奇跡が重なった大事件があります。

地球の歴史とルビーの歴史を重ね合わせることで、ルビーがいつの時代に生まれたのかがわかります。

地球の奇跡的な大事件がミャンマー産ルビーの誕生と関わっていることもルビーが大変希少な宝物だとおわかりいただけると思います。

地球のが有名な大事件は以下の3つです。

  1. 巨大隕石の衝突(恐竜絶滅)
  2. 地球全体の凍結(氷河期
  3. 大陸衝突事件(大陸衝突の地形の変化、世界のエベレストが出来上がるほど)

地球の始まりは47億年前にガイア(原始の地球)ができて、46億年前に今の軌道に乗りったところから、45.5億年前に惑星テイアと衝突し、月ができてその後、38億年前の始生代に地球に生命が誕生しました。

この過程で地球の中にルビーが生まれるための素材が集まりだします。

岩石について

地球は岩石と金属でできています。岩石は鉱物の集まりのことです。

鉱物とは一定の化学組成を持った個体で、ルビーも岩石から生まれます。

岩石にも様々な種類があり、大きく3つに分類されます。

  • 火成岩
  • 堆積岩
  • 変成岩

「火成岩」

マグマが冷えて固まった岩石です。地球上の岩石はすべて、一度はとけてマグマになったことがあります。

「堆積岩」

火成岩が壊され運ばれ、低いところにたまった岩石です。

「変成岩」

体積岩が地下に運ばれ高い圧力がかかり変成した岩石です。

岩石の変成は個体の状態を保ったまま、環境変化に適応してじわじわと変身していきます。

母岩からわかること

岩石は、変成した場所(深さや温度)を教えてくれるのでその当時の地殻変動の歴史と重ね合わせるとルビーの誕生の歴史の秘密を知ることが出来ます。

2000万年前のミャンマーでルビー誕生

ミャンマー産ルビーの母岩は「大理石」で、この白い大理石はもともとは海でできた石灰岩が、マグマの熱に焼かれて再結晶したものです。

地球の奇跡的な大事件がミャンマー産ルビーの誕生と関わっていることもルビーが大変希少な宝物だとおわかりいただけると思います。

約6000万年前海の堆積岩を大陸が運ぶ

別の大陸の一部だったインドが、プレートの動きにのって移動し、ユーラシア大陸に近づきました。

当時は広大なテチス海がインドプレートとユーラシアプレートの隙間を埋めていたが、インドプレートが北上するにつれて、テチス海は狭くなっていきました。

約2000万年前大陸がぶつかる

インドがユーラシア大陸にぶつかって、2つの大陸間の海の堆積物等が隆起して生まれたのがヒマラヤをはじめとする北部の山脈です。

海洋プレートが大陸プレートの下のマントルにゆっくり沈み込むことで、海底堆積物の厚い層が削られ、ユーラシアプレートの端に積み重なっていきました。

この海底堆積物の砂の層が圧縮されて岩石となり、最終的に山脈の頂になりました。そのためにエベレストなどヒマラヤの超高度地帯で海生生物の化石が発見されることはよく知られています。

プレートのしずみこみによって大陸と大陸がぶつかるところでは、間にあった海底の地層や、大陸にのった地層が圧縮されて、大山脈が作られます。大山脈の地下では変成岩が生まれます。

ミャンマー産のルビーは、同じ頃、大理石を母岩として結晶したものです。母岩の大理石は太古に生きたサンゴや貝殻、魚の骨などカルシウムが多い堆積岩が大陸移動により、約2000万年前に地下40kmで接触変成岩になったものです。

インド半島を乗せたインド・オーストラリアプレートは現在も北上を続けており、ヒマラヤ山脈は今でも年間に2~3㎝程度ずつその標高を高くしています。今では高さ8000mを超える高い山々が連なるヒマラヤ山脈ができました。

産地ごとの母岩の誕生時期

産地により母岩の種類が違います。ルビーの母岩のできた時と特徴をご紹介します。

主に3つの母岩の中でルビーが生まれました

アルカリ玄武岩起源の母岩ができた時

アルカリ玄武岩起源のルビーにはタイ産やカンボジア産等があります。

6500万年~50万年前に噴出した新生代玄武岩類を起源とするものです。

特に300万年~50万年前の鮮新世~第四紀に噴出したアルカリ玄武岩マグマは比較的深部(マントル最上部)で発生するため、地殻下部で生成したルビーを途中で捕獲して地表まで運搬する役目も果たしていました。

広域変成岩(苦鉄質岩~超苦鉄質岩)の母岩ができた時

広域変成岩起源のルビーは、ケニア、タンザニア、モザンビーク等のアフリカ諸国やマダガスカル、インドおよびスリランカです。

このルビーは7.5億年から4.5億年前の汎アフリカ造山運動に関連しています。

原生代末~古生代初めにかけてのこの時代はアフリカ大陸一帯で広範囲の造山運動が発生していました。

特に西ゴンドワナ大陸と東ゴンドワナ大陸の衝突はルビーをはじめとする多くの宝石鉱物の発生に関連しています。

大理石(結晶質石灰岩)の母岩ができた時

ミャンマーをはじめアフガニスタン、タジキスタンおよびベトナムのルビーの誕生は4500万年~500万年前の新生代ヒマラヤ造山運動に関連しています。

5億年前の古生代カンブリア紀に生きた生物のカルシウムが海の底の堆積岩となりました。

その堆積岩がインド大陸がユーラシアプレートに衝突してヒマラヤ山脈が形成された造山運動です。

ヒト(原人)とルビーの出会い

この時代に形成した大理石を起源とするルビーが、2000万年にミャンマーの地下40kmでルビーが結晶しました。

古代から人が、貝殻、骨かけら、牙、で身を飾っていたことがわかっています。

鮮やかな色や模様の美しい石が大切に集めれました。

ルビーはとても歴史がある宝石で、旧石器時代には、集められていた形跡があると言われています。

ミャンマー連邦共和国ルビー鉱山モゴックエリアの洞窟では、200万年前の原人の化石と一緒にルビーが発見されていて、当時からルビーを集めていた形跡が見つかっています。

文明が発達する以前から大切にされていたことが分かります。

ルビーと神話の歴史

今から1万5000年前ごろ、古代の人々は「氷期」が終わって環境がかわり、地球に豊かな実りをもたらす太陽や土地への感謝や尊敬する気持ちが生まれ、巨大な木、くめども尽きぬ水が出てくる泉、神秘的な赤い輝きをもつルビーなどを自然の象徴として多くの神話が作られていきます。

ルビーを持っている人は「自然をコントロールできる超越的な人=神」として認識されて語られていました。

ローマ神話とルビーの歴史

古代ローマ神話で登場する夜空に輝く赤い惑星といえば、火星=マース=マルスです。

そのマルスの象徴が宝石ルビーです。マルスはジュピターの息子で、勇敢な戦士、青年の理想像として慕われ、主神なみに篤く崇拝された重要な神でした。

ローマを建国した最初の王ロムルスの父はマルスと言われています。

ローマ建国神話をご紹介します。

ーローマ建国神話ー

マルスの神話には、レムスとロムルス(ローマ初代王)の誕生の神話があります。

王女である娘を見初めたのが軍神マルスでした。
王女はマルスとの間に双子をもうけました。この双子こそ、後のローマを建国するロムルスとレムスだったのです。こうして前753年4月21日、双子の一人ロムルスは建国の王となり、彼の名にちなんで国名を「ローマ」としたとされています

 

ヨーロッパの基盤となった古代ローマとルビーの歴史

紀元前8世紀ごろローマ帝国はイタリア半島の中心部に出現した小さな都市国家は半島を統一した後に、地中海沿岸の全域、現在のフランスやイギリスの一部まで支配する大国に発展しました。

そのため広い地域から多くの人やモノ、珍しい宝石(モゴック鉱山では6世紀の頃からルビーが採掘されてきたと言われています。)も集まりました。

技術の交流が活発になり、文化の発展をもたらしました。その後ローマの文化はヨーロッパ大陸全体に広がりました。

古代ローマーの博物誌で語られるルビーの歴史

プリニウスによる『博物誌』でルビーへの記述が残されている。

この博物誌は完成後ティトゥス帝に捧げたもの。プリニウスは自然科学者ではなかったので、観察や記述に学問的正確さを欠く箇所も見られるが、よく整理された知識が記載されていることから古代研究には不可欠の資料といわれている。

古代ローマではすでにルビーは宝石の中でも頂点に立つものとされ信仰されていました。

赤く光る姿から「燃える石炭」と呼ばれていました。(当時はルビーはカルバンクルスと記述されています。カルバンクルスとは「燃える石炭」の意味です))

紀元1世紀のローマ帝国の博物学者プリニウスによる古代最大の博物辞典の『博物誌』にもルビーの記述が残されています。

「内に燃える情熱の炎を宿る。特別な宝石」

「焔のように赤く輝く石の中で第一級のものに、その光が火に似ているのでカルバンクルスとよばれてる」

「この石が簡単に燃えないと言われていて、燃えないものと呼ぶ人もいる。この石はすべて太陽の光線がもっとも強く反射する地面に露出するということだ」

古代インド神話とルビーの歴史

インドは世界で最も古くから文明を築いてきた地で、社会形成や宗教、美術といった様々な面で独自の発展を遂げてきました。

古代のインドではルビーは重要な宝石とされ、マハーラトナ(偉大な宝石)の1つです。

ルビーは宝石の王を意味する「Ratnaraj」、宝石の指導者を意味する「Ratnanayaka」と呼ばれました。インドの伝説ではルビーの言伝えが残されています。

神は最初にルビーを作り、その後にその所有者として人間を創造したと言われています。

 

古代インドの太陽の宝石ルビーの歴史

古代インドではルビーそのものが神格化された存在で、インド占星術では太陽を表す宝石です。

太陽神は(ルビー)人間が太刀打ちできない大きな格の違いがあり、凄まじい力を持っていて、天の炎であり、天界で最も尊く、力強いものと考えられていました。

ルビーを身に付けると人体の中にも炎は宿り、神の力を与える光にもなると言われ、邪悪なものを追い払い、良い霊を呼び寄せる魔除けとして身に付けられました。

信仰とルビーの歴史

キリスト教は380年にローマの国教になって以降、ヨーロッパ社会の中心をとなる宗教となりました。

ルビーは神が人類を創造した際に同時に作り出した貴石の一つとして崇められていました。

教会への奉納品や、聖遺物を入れる箱、聖職者の威厳を示す指輪、豪華な胸飾り、地位を示す冠などでルビーは人々の畏敬や信仰の念を生み出し、宗教の荘厳さや権威を表すために協会に利用されてきました。

聖書でも語られるルビーの歴史

ルビーは聖書の中で美しさや知恵と関連づけられて言及され、聖書創世記のノアの箱舟の逸話の中で、ルビーは記述されています。

簡単にあらすじを説明します。

人類の創造主である神様が、悪い人間が増えたことを悲しみ、人類を滅亡させようと大洪水を起こします。しかし、人類の中で唯一清く正しい心を持った「ノア」だけが、神様に生き残りを許され、方舟を作り家族や動物たちと洪水を乗り切りました。

ノアの方舟とルビーの関係

「ノアの方舟」の物語では、洪水がつづいた40日間荒らしの中ルビーが放った光をたよりに進むことで、ノアは陸地にたどり着けました。このエピソードからルビーは心の支えとなり難局を乗り越える力、お守りとしてとらえられています。

方舟には火のように赤い石(カーバンクル)がのせられていた

 

ルビーは実際に蛍光を起こす性質を持っていることが今では化学的根拠を持ちよく知られています。

一般人がルビーを見る機会はほとんどなかったことを考えると、ルビーが発光現象を起こす様子を当時の人は神からのメッセージとして受け取りました。

「石の持つ神秘性を知るに相応しい人」だけに伝えらえたルビー

11世紀に「宝石誌」という有名な宝石書をのこしたマルボドス司教はルビーについて以下のように書き残されています。

夜の光もその力強い輝きを消すことはできない。それをみる者の眼にその火を投げる。

ルビーは唯一無二であり、ドラゴンやワイバーンが額の真ん中に持つ、赤く燃える目である。

実はマルボドス司教はこの書をたくさんの人に見せるつもりはなく、石の持つ神秘性を知るに相応しい3人にだけ見せようとしたのです。宝石誌の序詩でこのように記されています。

アラビア王エヴァクスはティべリウス帝に書簡を送ったと伝えられている。これは、首都のローマでアウグストゥス2代目としての支配権を握った皇帝宛である(そのの内容は)様々な種類の石がどんな名前で、どんな色でどこで産し、またどんな力が備わっているかということを記したのである。

私は作品(石)を抜粋してまとめるべきだと思思った。短い形にして小冊子にしようとそしてこれは友人にもあまり知られないようにした神秘なものを世俗化する人はその卓越性を減らすことになり、秘密の事柄は、そのまま留まらず、民衆の知るところとなるからである。

この作品は3人の友人以外には誰にも見せないようにと決めたいかなる数が、いかなるものが神聖かを彼らに知らせよう。すなわち神の神秘を守ることに正しく賞賛を送り、価値ある習慣、誠実な生活という点で推薦される彼らにこそ贈ろう。

しかしキリスト教のエリートだったマルボウス司教の宝石の神秘について記述されたこの本は神のメッセージとして多くの人を魅了し、皮肉なことに多くの人へ伝えられていきました。

ルターのルビーの婚約指輪(16世紀)

16世紀、当時のドイツはサンピエトロ大聖堂の改修費用をまかなうため免罪符を販売していました。

これに対しマルティン・ルターは免罪符の購入が救いをもたらすことはないと批判しました。

マルティン・ルタールターは儀式に参加したり、善い行いをしたりという「形」ではなく、自らの内面でいかに神を信仰するかという「心」聖書そのものが重要であると説いた人です。

プロテスタントではローマー教皇や教会のような権威者がいないため自分の力で聖書を読み解釈する学習と自分自身の意識の高さが必要でした。

そのマルティン・ルターがプロポーズする際用いた宝石がルビーでした。

新約聖書を多くの人々に広めたひとつの理由がこの新しく登場した「活版印刷技術」という技術革新でした。この新技術を武器に、マルティン・ルターによる新約聖書は爆発的な広がりを見せます。

ルビーの価値の歴史

メディチ家は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭し、フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族です。その財力で多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られています。

16世紀のフィレンツェで、1ctあたりのルビーが市民の400年分の年収に相当。

宝石ルビーは金貨800枚と同等有名なジュエラーのベンヴェヌート・チェッリーニは1560年に、ルビーの価格はダイヤモンドの8倍だと記しています。

ルビーは担保としても使われていた?

中世ヨーロッパでは交易が発達することで増えた、国をまたいでの高額な取引が、金銀を含む貨幣による直接決済を困難にしました。

両替商たちは支店を欧州中に広げ、遠隔地同士での別貨幣による、時間差決済を可能にしました。その中核はルネサンスのフィレンツェを拠点とするメディチ家だったのです。

メディチ家は銀行業で隆盛を極めただけでなく、政治の実権もにぎり、バチカンの財務管理者となり、全ヨーロッパからローマ教皇庁に集まる膨大な資金の管理を独占的に担うことになりました。15世紀から18世紀初頭まで、事実上フィレンツェを支配していた。

宝石は十字軍を派遣する王やに資金を貸しつけするときや、没落してもかつての豪華な生活水準を維持しようとし封建諸侯や貴族からも貸付けする担保に使われていました。

その流れから両替商は担保としてよく出される宝石への鑑識眼が身につけていきました。

宝石が担保として使われ、古くから価値のあるものと記されているルビーからは文化や歴史がよく分かります。

メディチ家のお抱え彫金師ヴェンべェヌート・チェリーニは1560年頃、当時の代表的な宝石の価格を、次のように伝えている。なお、価格の重さが1カラット(0.2g)当たりのものである

ルビー 800金スクーディ

エメラルド 400金スクーディ

ダイヤモンド 100金スクーデ

ィサファイア 10金スクーディ

引用:森誠著 ユダヤ人とダイヤモンド

16世紀のフィレンツェで、1ctあたりのルビーが市民の400年分の年収に相当したそうです。

(金貨800枚)宝石ルビーは、歴史的に見ても、貨幣よりはるかに高い価値が認められた富の頂点でした。

十字軍の失敗、教会の分裂などにより、ローマ教皇の権威が落ちていくなか、王権が大きく伸張することになります。イタリア諸都市の発展は新しいブルジョアジーの誕生促し、各王が巨額の宝石類を購入していきました。

交換価値のあるルビー

島国に生まれ、外敵から領土を大々的に侵略されたことのない民族にはルビーを離散とか逃避、逃亡と絡めて考える習慣はないのですが、当時、荷物を持たず着の身着のまま脱出する状況になった王侯貴族たちは、交換価値のあるものが宝石を持ち脱出してきます。

交換価値のある宝石は世界中どこでも通用するからです。その代表格な存在がルビーでした。

宝石の中でも交換価値がある宝石で大切なポイントは3つです。

  • 小さい
  • 軽い
  • 高価なこと

ルビーと権威の歴史

帝権や王権がローマ帝国、ローマ教会のようにヨーロッパ全域に普遍的な権威や統治者としての正統性を主張され認知されるにはには、古来の宝飾芸術作品や伝承的な所蔵者であること必須条件とされていた。

人間の心性に対して、最も普遍的な権威を訴求できるものといえば、「特別な」美と輝きを誇る宝石。その中でも希少で価値の高いルビーでした。

統治者がルビーを重視したのは、かつてのローマ帝国のようにヨーロッパ全域に普遍的な権威として認知されるためにも統治者としての正統性を主張する必要がありました。

古来の宝飾芸術作品や伝承的な所蔵者であることが何よりも正当性を主張するには必須条件とされていました。

王侯貴族とルビーのエピソードを2つご紹介します。

エカチェリーナ2世の帝冠

エカチェリーナ2世は1762年の自身の戴冠式に向けて壮麗な定冠をつくらせました。

この定冠はロシア帝国のピュートル大帝のコレクションの中でも最も希少で価値の高い「7つの歴史的宝石」の1つでもあります。

定冠のメインストーンのルビーはロシア大使のニコライ・スパファリーが1676年に中国の皇帝と交易交渉を行っている時に、中国から手にいれました。2672ブールという(当時からしても相当な値段)で買ったと記録に残されています。

1896年、最後の皇帝ニコライ2世の戴冠式でもこの定冠が使われている

当時はルビーと信じられきたルビーですが後にこの石は世界第2位の大きさを誇る赤いスピネルという別の鉱物であることが判明しました。

ルビーは絶対的権力者が欲しくても手に入らないほどの宝物、ルビーの稀少性がわかるエピソードです。

ナポレオンの妻の肖像画の赤いルビーのティアラ

ナポレオン・ボナパルトは、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝でした。

彼は1769年8月15日にコルシカ島で生まれ、1799年にフランスの政治的混乱を収拾し、1804年に皇帝に即位しました。

彼は多くの戦争を指揮し、フランス帝国を築き上げました。彼はまた、法律や教育などの改革を行い、フランスの文化的・社会的発展に貢献しました。

ナポレオンが真実とはかけ離れた肖像画を広めたのは英雄としての存在感を高める為の言わばプロパガンダ的な意味合いが強かったから。

ナポレオンと2人目の妻マリー・ルイーズの間に1811年生まれましたナポレオン2世は。ナポレオンにとって待望の後継者で、生まれてすぐローマ王の称号を授けています。

1810年にナポレオンが2番目の妻マリー=ルイーズへ結婚を記念しての贈り物としてティアラを作らせました。

実際のティアラは深緑色のコロンビア産のエメラルドがあしらわれていましたが、ジョバンニ・バッティスタ・ボルゲージよる肖像画で画家は赤い石のティアラとして描いています。

このティアラも世界中が欲する権力の象徴のルビーで描く意味がありました。

ナポレオンにとって待望の後継者であり、未来の皇帝を生む予定の妻との結婚の証のティアラは最高な宝石ルビーである必要がありました。

ナポレオンは肖像画を政治利用できることを知っていました。自身の肖像画でも真実とはかけ離れた肖像画を描かせました。その肖像画はナポレオンを英雄としての存在感を高める為の言わばプロパガンダ的な意味合いが強かったのです。

自身の帝位と帝国の「イメージ作り」に利用しました。

現代におけるブランディングのような話です。ナポレオンは肖像画についてこのように語っています。

「肖像画は本人に似ている必要はない。絵に描かれる必要があるのは、人格だ。才能がそこに息づいていることが大切なのだ」

ナポレオンが最後まで大切に身に着けていた赤い石

ナポレオンは一生涯、肌身離さず大切にしたのも「オデム」と呼ばれた赤い宝石でした。

ヘブライ語でアードムと発音され、このドムというのが、ヘブライ語で「血」を意味し、アダムの語源です。

1815年、皇帝の地位を失ってセントヘレナ島に流された時も、この石を最後まで大切に身に着けていたと言われています。

ルビーはヨーロッパでも権力の象徴とされ、災いを退ける効果のあるお守りとして身に着けられていました。

ルビーが採掘されない欧州では、まだ赤い宝石ルビー、スピネル、ガーネット、カーネリアンなどを見分けることはできず、赤い石の総称がルビーでした。
このアドムの素材は、カーネリアン(紅玉随)Si シリカの鉱物です。

ルビーと産業革命の歴史

大航海時代から18世紀の産業革命、17世紀の科学革命から、18世紀に本格化していく「産業革命」へ1800年頃から蒸気機関の発明、それによる汽車と蒸気船の誕生、織機の自動化など、いわゆる産業革命と呼ばれる社会の変化が生まれます。

産業革命が始まり、鉄道、船、貿易、保険、銀行、旅行代理店などができ、そこで仕事で働く平民が富裕になるチャンスがもありました。19世紀初頭には、蒸気機関を利用することで多くの宝石を正確にカットすることが可能になり、普及が進みました。

需要に合わせるように、それまで王侯貴族が使われてきた注文生産制ジュエリーとはデザインも性質も異なる、妻や子供、愛人たちに、贈る新しい量産制のジュエリーへ変わっていきました。

人工合成ルビーの発明

ルネッサンス期を境にルビーの歴史は、見た目だけの似た物を作ろうとした歴史になっていきます。

1888年イギリスの宝石商エドウィン.ストリーターが「ビルマ鉱山会社」を設立し、

現ミャンマーのモゴック鉱山でルビーの採掘を始めました。

イギリスと鉱山の採掘権を取り合いして採掘権を逃したフランスが、1908年にベルヌイ博士の人工合成ルビーをフランス産のルビーとして売り出しました。(1830年代(日本では江戸時代)にはルビーの人工合成技術が発見されていました。合成成功は1887年)

天然、人工石の区別をつける前の時代だったので、イギリスが輸入する天然ルビーの価格が一瞬で大暴落してビルマ鉱山会社は、設立からわずか20数年で破産してルビー鉱山から撤退していきました。

宝石の価値を支えている大きな要素が「希少性」です。

色々な理屈をつけて宝石をビジネスの道具にすると、一時、世の中に数が増えて、希少性が低下してしまうのです。

19世紀に行われた科学的分析により、鑑別技術の発達で宝石種が鑑別できるようになりました。

人工的に作られた宝石と天然の宝石の見分けがつくようになり、希少ではないために人工合成ルビーは宝石としての価値を失いました。

そして、今まで歴史上で語られてきた国の権威を表していたはずのルビーは実はルビーではなく、赤いスピネルやほかの赤い宝石だったということもわかりだしました。

ルビーと近代の歴史

原産地ミャンマーでは1930年代に英国人が採掘から撤退すると、現地人の手による採掘が再開されました。

採掘方法は昔ながらの手法に戻り、経験に基づく採掘作業が行われていました。

1963年にはビルマ政府によって事業は完全に国営化され、外国人による採掘や販売はすべて禁止され、鉱山への立ち入りが不可能になりました。

1990年代になると、これらの規制は緩やかになり、政府と個人企業に因る合弁事業が許可されるようになり、昔ながらの手法に加え、近代的な採掘が行われるようになりました。

現在はまた国の情勢が変わりミャンマー産ルビーを手に入れることが難しくなりました。

天然の価値ある宝石を見つけることの大切さとむずかしさを感じます。

まとめ

この記事では、ルビーの歴史の、その成り立ちや過程を知ることによって、さらにルビーへの理解(希少・高価)を深めることが出来るように解説してきました。

ルビーの歴史を知るメリットは、ただ物知りになるだけではありません。

お持ちになるルビーは、奇跡としか言いようがない地球の成り立ちが必然となり重なり存在していることにさらに驚きを感じさせてくれます。

古代の人が宝石を見つけた時も同じ驚きを感じていたはずです。

出会えることが奇跡の宝物ルビー。是非探してみてください。

 

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