ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー9【19世紀末から】

この記事ではヨーロッパの宝飾芸術の中世の時代についてすぐわかるヨーロッパの宝飾芸術 著者山口遼 発行 東京美術から引用して解説します。

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー9

Contents

アーツ・アンド・クラフツ

機械化と量産への反動 中世への憧れから生まれた手工芸

機械による量産を否定する革新運動

19世紀も末になると、50年近く続いたヴィクトリア女王統治下の社会に、一種の閉塞感が生まれてくる。工芸の世界も同様で、社会の大衆化が進むにつれてその需要に合わせた容易なデザインと作りの工芸品、すなわち機械による量産品が世に溢れる。こうした傾向への反動として、ラスキンの思想に影響を受けたウィリアム・モリスを中心として革新運動が生まれる。彼らは機械による量産を否定し、中世にみられたような一人の職人による完全な手作業を理想とし、そうした方法で作った工芸品を世に送った。この運動はジュエリーだけでなく、家具や壁紙、本の装飾、活字の自体にまで広がるものであった。こうした芸術の動きを、「アーツ・アンド・クラフト」運動と呼ぶ。

理想は一人の職人の手作業

同時代のジュエリーが使われている宝石や貴金属の価値に基づいて評価されたのに反して、この運動に共鳴した工芸家たちが第一に問うたのは、美しいか、ということであった。「美しいのか、美しいならば使えてもいい」という言葉に、この運動のすべてが表現されている。したがって、使う宝石の素材としての価値はほとんど無視をされ、逆に高価な宝石はよこしまな素材として避けられた。だから、使われる宝石類もムーンストーンとか貝付き真珠、半貴石が主体で地金は銀が中心。それに多様されたのは七宝で、それも最も簡単なものであった。

ダイヤモンドや色石などの使用例は、きわめて少ない。また彼らがデザイン・アイデアの源泉としたのが最も自然なものとして花や樹木であり、職人の憧れの中世と「ゴシック」であった。ただ不思議なことに、ゴシックの時代にはジュエリー自体は多くなく、ほとんどが宗教用品であったので、建築家ピュージンなどが先駆的に作ったゴシック風ジュエリーは、建築の装飾要素を利用したものである。アーツ・アンド・クラフツの工芸家たちは、こうした得られたアイデアを学校やクラフツマンの集まりを中心として可能な限り自分たちだけの手作業によってジュエリーに仕上げていった。その結果出来上がったものの多くは、よく言えばクラフト風の手作りの良さを示し、悪く言えばおよそ完成度の足りない、素人芸の製品となった。ほぼ同時に欧州大陸に広がった「アール・ヌーヴォー」の運動はアイデアを出す人間と作る人間を峻別し、実際制作する人はすべてプロ中のプロを使ったために、完成度が非常に高くなっている。そこが両者の差であり、そのどちらを評価するかは、人によって大きく分かれる。

アールヌーヴォ―

閉塞感を破る新しいアイデア 影響を与えた日本の工芸

契機となった日本文物との出会い

19世紀になると、前項でものべたように、英国でもフランスでもある種のした風潮が生まれる。それと平行して、産業革命の進展の影響は工芸、ひいてはジュエリーの世界にまで影響を及ぼし、量産品ともいうべき安易な商品が生まれてくる。これは産業革命による新しい富裕層という、新規の市場が発達したことも意味したが、意識のある作り手には耐えがたい環境であった。人々は、全く新しいアイデアを求めていたのだ。そこに偶然にも登場したのが、日本からの文物であった。この出会いから「アール・ヌーヴォー」(新しい芸術の意)が生まれた。

底流に流れる日本的テーマ

アール・ヌーヴォーという芸術運動は、ジュエリーの分野だけに限らず建築や家具、絵画、本の装幀などにも見られたものだが、特に金属工芸あるいはジュエリーの分野で優れた、画期的な名品が生まれている。その中心となったのがフランスとベルギーであり、個人デザイナーの工房を中心として創作活動が行われた。同時代の大宝石店のほとんどは、アール・ヌーヴォー風の作品は手がけていない。ルネ・ラリックを中心とするパリのデザイナーたちは、1870年代から欧州に登場し始めていた日本美術に強烈な刺激を受け、これまでのジュエリーに全く見られない、斬新で画期的な一群のジュエリーを作り出した。その手本となったのは、日本美術に特有の完全なる左右非対称の構成、様式化された流れるような曲線や浮世絵などに見る図案といったデザイン・アイデアだけでなく、四分一や赤銅、漆、有線七宝、螺鈿、蒔絵といった素材や技法であった。

デザイナーたちはそうしたデザインや素材、技法を用いて蜻蛉、蛇、日本の草花、蛸、白鳥、孔雀、蝶等をテーマにしたジュエリーを作り続けた。アールヌーヴォーの面白さは、このようにデザイナーたちが画期的なデザインをしながらも、実際の制作に関しては従来の優れた職人を重用し、作りは専門家に任せたことである。このようなアール・ヌーヴォーの動きはドイツやデンマーク、さらにはアメリカにまで飛び火し、アメリカではティファニー家の二代目、ルイス・コンフォート・ティファニーが現れる。今、こうしたジュエリーをわれわれが見ると、何かどこかでみたようなデザインが多いが、その根源が日本美にあることを思えば、それも当然といえよう。

真の天才 ルネラリック

ジュエリー作家として世にでた人物 ガラス工芸家への転身は1910年以降

全くの独創を発揮した天才

ジュリーの歴史を子細に見ると、その実例の多くは過去のものの繰り返しであることがわkる。しかしなかには全くの独創を発揮した数人の天才と呼ぶべき人物がいる。そうした天才のジュエリーは、後に続く者たちによって盛大にコピーされたために、今では何かありきたりの物に見えることもあるが、その影響は実に大きく、長く留まる。そうした真の天才の一人が、ルネ・ラリック(1860~1945)である。今日に至るまで、彼をコピーするデザイナーとそのジュエリーは、日本を含めて無数に存在する。しかし、どれを取っても、ラリックの作品の亜流にすらなれていない。超絶天才、ラリックの生涯を見てみる。

奇抜ないアディアと伝統的な職人技術

ラリックと言うとガラス工芸家と思われるだろうが、彼はもともとジュエリーの勉強を正式に修め、ジュエリー作家として世に出た人物である。ラリックの面白さはそのデザインのアイデアにあり、彼自身が優れた作り手であったわけではない。つまり、優れたコンダクターであったわけで、この点はロシアの天才ファルベルジェと同様だ。基礎的な修業を終えたラリックは、1885年年頃からパリで自分のジュエリーを作り始める。その後1910年以降にガラスへ転向するまでに作られたジュエリーを一言で言えば、奇想のデザイン、奇抜な素材、そして卓越した技術のもの、ということだ。ラリックがデザインの源泉にしたのは日本美術である。薄く研ぎだした象牙や動物の骨、プリカジュールに代表される多彩な七宝細工、黒く硫化させた銀の塊、色ガラスなどという独創的な素材を使って、エキゾチックな動植物や昆虫、裸婦像、盆栽あるいは屏風のデザインなどのジュエリーを世に送りだした。さらには美女を食べるトンボ、行進してくる4人の尼僧、鳥を頭に被った女性像等、これまでに見ないジュエリーもたくさん残している。

彼は、こうした奇怪とも言える作品を作るに際して伝統的な職人を否定するのではなく、彼らを徹底的に使うことで、デザインはユニークでありながら完成度の高い見事なジュエリーに仕上げた。ラリックは大事業家のグルベンキアン氏というパトロンを持ち、費用も時間も制限されることなく氏のために多くのジュエリーを残した。そのほとんどは、今もリスボンにある。彼の作品の模倣は、1910年代からすでに始まっており、今日でも亜流は世界中に存在する。

ロシアの栄華 ファルベルジェ

ジュエリー史に残る数少ない天才 ロマノフ王家の繁栄を伝える宝飾品の数々

皇帝2大の繁栄と宝石商の活躍

ロシアを支配したロマノフ家の歴史は長い。1613年から1917年まで、18人の皇帝が即位したその皇統のなかで、エカテリーナ2世と4人の女帝がいたこともあり、歴代宝石類の収集では群を抜いた王朝でもあった。しかし、ジュエリー史の上でロシア栄華を言う場合には、王朝最後の皇帝アレキサンドル3世とその子ニコライ2世の2代に渡る繁栄と、2人の皇帝に宝飾品を作り続けた天才ファベルジェやボリーン、ティランだーなどの宝石商の活躍した時代を指すのが普通である。

宝飾技術の粋を凝らした実用品や装飾品

ペーター・カール・ファルベルジェ(1846~1920)は、ジュエリー史ン残る数少ない天才の一人である。彼はロマノフ家最後の皇帝2人とその家族のために、宮廷で使うさまざまな品物江尾宝石と貴金属を用い、多くの優れた職人を使いながら作り続けた。製品としてはジュエリーは少なく、むしろ皇帝からの下賜品や時計、花瓶、写真立てなどの実用的な品物が多い。今日ファベルジェがつとに知られるのは、皇帝の后2人のために作った約50個に及ぶイースターエッグによってである。ロシア正教徒にとっては、クリスマスよりもキリストの復活を祝うイースター祭の方が大切である。彼らはこの日に、復活の象徴として装飾した卵を贈り合う。皇帝と后のために、ファルベルジェは宝飾技術の粋を凝らしてエッグを作った。1885年のことである。それ以後、1961年の革命直前まで約30年にわたりこの作業は続く。

ファルベルジェの宝飾技術のなかで最も注目されるのは七宝、特にギヨシェと呼ばれるものである。事前に金属の板の表面にエンジン・ターンと呼ばれる機械を使って線刻で精密な幾何学模様を施し、その上から透明の色のある七宝をかける技術で、これによって幾何学模様が濃淡となって見える。ファルベルジェはまた、さまざまな宝石類を彫刻して動物や植物を作ることにも優れ、英国の王室にそれらの一大コレクションがある。

彼はこうして、英国王室を始めタイ王室等のためにも多くの装飾品を作った。その成功を見たカルティエがロシアに進出を図るが相手にされず、しっぽを巻いて退散したことからも分かる通り、ファルベルジェに比肩できる宝石商はいない。彼のイースター・エッグを実際に見るとその途方もなさに仰天するし、こんなものを作っていたから革命が起きたと言いたくなるが、革命後のソ連邦が生み出した芸術がマトリューシカ人形であるというのも、いろいろ考えさせられる歴史の矛盾であろう。

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