ヨーロッパ宝飾芸術の源流をたどると、世界の宝飾芸術が文化と共に変化を遂げてゆくドラマチックな過程が浮かび上がり、宝石は経年変化することなく残っている事実にも感動します。
世界の宝飾芸術をたどっていくため、シリーズとしてまとめました。
この他のシリーズはこちらからご覧ください
ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー1【古典期から近世へ解説】
ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー3【ネオ・クラシシズムまで】
ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー4【近世以降からセンチメンタリズム】
ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー6【ジュエリーデザイナー】
ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー10【エドワーディアンから】
この記事ではヨーロッパ宝飾芸術【中世からルネッサンスの宝飾】についてすぐわかるヨーロッパの宝飾芸術 著者山口遼 発行 東京美術から引用して解説します。
中世【長くまた混乱した時代の証人 宗教の装身具】
宗教が人々を脅かした時代
ミドル・エイジすなわち中世という言葉は、17世紀にできたものである。ルネサンスが終わりかかった頃、ルネサンスと古代ギリシャ・ローマの時代の間に挟まる時代、それを総称して中世と呼んだ。476年の西ローマ滅亡から15世紀までの千年ほどを言うわけだが、ともかく長くまた混乱している。ここでは中世のふたつの面、つまり協会が神を使って人々を脅かし続けた面と、異民族が流れ込んで人種的に混乱した面とから、ジュエリーを見てみる。
豪華絢爛な教会の荘厳具の数々
敬虔なキリスト教徒の方からは怒られるかもしれないが、どう見ても中世における協会の行為は目に余る。簡単に言えば、教会が神と天国と地獄を使って人々を恫喝していたとしか思えないということだ。人々が気にしたのは、王侯貴族など含めて、いかに神を崇拝し協会から怒られないように過ごすかということであった。人々の奢侈は神の嫌うところであり、「ソロモンの栄華も野の百合にしかず」とばかり質素を旨とさせた。その一方で坊主どもは協会や神の荘厳にし、それによってさらに人々を神の僕とすることに全力を傾けた。だから、この時代のジュエリーに類似する金属工芸の主なものは、教会の荘厳具である。
聖遺物とは聖人や殉教者などの遺品や体の一部などで、その人物と同じ力が宿るとして崇敬の対象となる。これを収納する入れ物が聖遺物箱で、十字架や本、カバンのようなものなどさまざまンな形がある。英語ではマンストランスと呼ばれるが、美術館などでのんびりと眺めていて、突然十字架のまんなかの空洞に人間の手の骨が丸ごと入っていることがわかって仰天した方もいるだろう。教会はこの聖遺物箱を貴金属で作り、多くの宝石類や七宝で飾った。
そのほかにも、教会の聖壇の回りや十字架、照明具などに膨大な金銀宝石が使われている。野の百合などどこにもないのが教会である。一方、人々が使ったジュエリーらしき可憐なものにアンセーニュがある。聖地巡礼記念バッジと言うべきもので、ルルドなどの聖地をめぐる巡礼が記念に買い求め、帽子などに縫い付けたものだ。王侯用の絢爛豪華な金銀製もあるがほとんどは鉄や青銅製で、装身具と言うよりもいかに敬虔な信者であるかを示すものであった。教会の強欲と信者の可憐さとが、何よりもよく対比されたものと言えよう。
中世2【大移動したキリスト教化のなかでゲルマン諸族が遺した実用的装身具】
諸侯による王国の興亡から統合への時代
ローマ帝国辺境の民族の平安は東から侵入してきたフン族によって破られ、多くのゲルマン族が西方のローマ帝国領内に移動したことは民族大移動として歴史に残る。
アングル族やサクソン、ヴァンダル、フランク、ランゴバルト、ゴートなどゲルマン諸族は東西に分裂した帝国の半分、西ローマめがけて侵入し、次々と国を建てて滅びていった。
文化史的には、その過程のなかでゲルマン族は少しずつキリスト教化してゆく。
やがてシャルルマーニュ大帝のカロリング朝やオットー大帝の神聖ローマ帝国の時代となり、神と天国と地獄をテーマとする美術を作ったことは前項の通りだ。ここでは、キリスト教以前の、そうした民族のジュエリーを見てみたい。
古墳から発掘された民族色濃い装身具
1939年、ロンドンの北東約100キロのサットン・フーで古墳が発掘された。ヴァイキングなどの海洋民族特有の船葬墓で、木製船に積まれていたのはメロヴィング朝のコインのほか大量の装身具、大きな肩飾りやバックル、刀の柄飾りなどである。多くのものが金属製で、宝石類はガーネットが主に使われている。最も有名な全長13㎝もあるバックルや、グリッピング・ビーストなどのデザインのものはキリスト教と接触する前の民族のデザインでありジュエリーであったと推測される。墳墓そのものは、650年前後のもので、サクソン族の王エスルヒアのものと言われる。これら諸民族が作った装身具は装飾を伴ってはいるものの、本質的には実用品として作られたことが特徴でフィビュラモ衣服の合わせ目を留めるためのボタンの代わりの実用品であった。そのあたりが、完全に文明化する以前の民族の装身具の状況を示すものとして面白い。印象的なのは、平面に研磨したガーネットを有線七宝のように嵌入してあることで、接着剤には微粒子状の砂と卵白を使っている。また鈍い鼠色をしたニエロも特徴的で、実例はむしろ七宝よりも多いだろう。こうしたジュエリーのほとんどはキリスト教化のなかで作られなくなり、その後のロマネスク、ゴシックの時代を通じてほぼ完全に忘れ去られたのは残念である。これが復権してくれるのは、19世紀のリバイバルの時代を待たねばならなかった。
ルネサンス1【王侯貴族がパトロンとなって作らせた男性用の大きく重いペンダントなど】
職人が集団で製作した大工房の時代
神と天国と地獄を振りかざす教会からの圧迫と東からの異民族の流入に悩まされた千年に心からうんざりした人々は、古代ギリシャ・ローマを範とする人生を求め始める。これが始まったイタリアではそれをリナシメント、再生と呼んだ。
やがてその影響は北方のドイツやオランダに、さらにはフランスまで及び、ルネサンスとして定着した。ルネサンスは都市文明であり、それを支えたのは中世の教会に代わる王侯貴族と都市の上流富裕階級であった。イタリアのメディチ家、ドイツのフッガー家などがその代表である。
裏側にも施された細工とカラフルな七宝
この時代、今日のジュエリー・デザイナーの走りともいうべき人物が登場する。ベンヴェヌート・チェリーニがその人で、さまざまな金銀細工に作者として自分の名前を残したのは、彼をもって嚆矢とする。天才的な金細工師でありながら、トラブルを起こしては牢屋への出入りを繰り返した彼は、メダルの原型を彫ったり彫刻を作ったりしているが、本質的には金細工師の修行をした人物で、代表作はサリエラと呼ばれるフランソワ1世のために作ったテーブル用の塩胡椒入れである。見事の一言に尽きる女神ケレスと海神ネプチューンを描いた金の像はウィーン美術史美術館の呼び物であったが、盗難にあっている。彼の自伝を読むと、ルネサンスの工房の実態がよくわかる。個人の芸術家が一人で作業するのではなく、大工房とも呼ぶべき集団があり、親方を中心にあらゆる技術を持った職人の集まりの中で物を作り技術を習得し合っていった。芸術家ではなく職人の時代、それがルネサンスである。こうした大工房で作られたジュエリーで最も目に付くのがペンダントだ。念のためだがこの時代のジュエリーはほとんど男性用、したがってやたら大きく厚く重たい。デザインはほとんどが神話や伝説、キリストの生涯といったテーマから取られた人物像や怪獣、動物の組み合わせで、きわめて複雑で裏表ともに細工が施されている。ダイヤモンドや色石も使われているが、目に付くのは重厚な厚い不透明の七宝である。全体的にぼってりとした印象のペンダントは吊り方が独特で、本体から鎖で釣り上げたものをもう一度上方で輪にまとめ上げ、そこにチェーンを通す、いわば二重吊りである。重たくて厚みのあるカラフルなジュエリー、それがルネサンスのペンダントであり、この時代を代表するジュエリーです。
ルネサンス【銅版画として登場したデザイン画】
金銀細工師によって彫られた銅版画
ジュエリー史の上で、次のマニエリスムの時代にかけて起きた大切なことは、デザイン画の登場である。
このデザイン画の歴史は、実は版画の歴史でもある。西欧での版画は1400年前後の木版画から始まり、1420年~30年頃に銅版画が登場する。
銅版は金属の板に傷を付け、そこにインク入れたインクを紙に転写する。この金属の表面に入れる彫りは金銀細工師の技術と同じもので、初期の銅版画は彼らが彫ったとも推定される。この二つの職業はそれぞれ独立してゆくが、15世紀末あるいは16世紀の初めごろは同じ職業だったのだろう。したがって初期の銅板彫刻師がジュエリーのデザインに使えるような画題を彫ったのは、決して不思議ではない。
ジュエリーには見えないデザイン画
この銅版画という新しい技術に魅せられたのか、高名な画家2人が余技としてジュエリーのデザイン画を残している。アルブレヒト・デューラーとハンス・ホルバインである。特にホルバインはヘンリー8世の宮廷に仕えながら、179枚のデザイン画を残し、今は大英博物館の所蔵となっている。ただし、不思議なことにどちらのデザインも実際に作られた気配はなく、現物のジュエリーは存在しない。19世紀の末頃になって、これを使ったと称するジュエリーは作られ、ホルスバイネスクの名前で売られた。これなど「何々先生デザインのジュエリー」の走りだが、ホルバインの絵とは全く似ていない。2人の後を追うようにして多くのデザイン画を残した人々が出るが、初期のデザイン画の面白さは、デザインがジュエリーの形をしていないことだ。アラベスクあるいはグロテスクと題されたもので、その多くは自由な発想のさまざまな形を連ねた版画である。
アラベスクは文字通りイスラム起源の連続した線の模様ので形成され、グロテスクはまさにグロテスクな図像の集大成である。これがどうしてジュエリーなのかと聞かれそうだが、ジュエリーに限らずあらゆる工房の親方はこの画集から自分の好きな部分だけを模写して品物を作った。つまり彼は高価なこの版画集を隠し持って、その一部を自分のデザインとして小出しにして金を稼いだのである。やがてデザイン画は今の物と同じく、ペンダントとか指輪とか、実際の物の形をとってゆくようになるが、ルネサンス初期に生まれたデザイン画は、なんとも不思議なものであった。
まとめ
この記事ではヨーロッパ宝飾芸術【中世からルネッサンスの宝飾】についてを解説してきました。
次はネオ・クラシシズムの宝飾芸術ついて解説していきます。