ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー6【ジュエリーデザイナー】

ヨーロッパ宝飾芸術の源流をたどると、世界の宝飾芸術が文化と共に変化を遂げてゆくドラマチックな過程が浮かび上がり、宝石は経年変化することなく残っている事実にも感動します。

世界の宝飾芸術をたどっていくため、シリーズとしてまとめました。

この他のシリーズはこちらからご覧ください

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー1【古典期から近世へ解説】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー3【ネオ・クラシシズムまで】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー4【近世以降からセンチメンタリズム】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー5【ヴィクトリアン】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー6【ジュエリーデザイナー】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー7【ベル・エポック】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー8【ジャポニズム】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー9【19世紀末から】

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー10【エドワーディアンから】

この記事ではヨーロッパ宝飾芸術【ジュエリーデザイナー】についてすぐわかるヨーロッパの宝飾芸術 著者山口遼 発行 東京美術から引用して解説します。

ヨーロッパの宝飾芸術の宝石ジュエリー6

Contents

カステラ―ニ一族

メーカーとしての地位を明瞭化したジュエリー・デザイナーの始まり

15世紀末に登場したデザイン画の印刷物

ジュエリーを作るためのデザイン画の発注は意外と明瞭ではない。近世以前のデザインは、実際の制作を司る工房の親方の知識と経験とに依存していた。親方の頭のなかにある過去のデザインあるいは制作物と顧客の持つ宝石、それに実際に使う人の好みなどを混ぜて、だいたいこうしたものという形で作られた。親方たちが利用できる刷り物のデザイン画が登場してくるのは15世紀も末のことで、それもジュエリーそのものの絵ではなく、工芸なら何にでも使えるような奇抜な線画であり、作り手はその中の好きな部分や都合のよい部分だけを利用した。ジュエリーに限らず家具も衣装も、すべて同じパターン・ブックからアイデアを得ていたのである。

製作者としての刻印を始めて使用

19世紀の半ば以降、ジュエリーが新興階級の人々に広く使われるものとなった頃、自作に初めて製作者としての刻印をつけたのは、イタリアのフォルトゥナート・ピオ・ァステラ―ニである。彼はローマに開いた店で、ギリシャ、ローマなどの過去の遺物にデザインと技術の範をとった多くのジュエリーを売り出した。正確に言えば、おそらく最初の頃は、彼はローマ土産としてのジュエリーを作ったと思われる。カステラ―ニが特に関心を持ち模倣しようとしたのは、古代のイタリアに住んでいたエトルリア人の技術、特にその粒金と呼ばれる技法であった。19世紀中頃から、イタリア各地でエトルリア人の作った金細工の遺物がたくさん発掘されていた。

長い苦労の後に、彼はフィリグリーのほか古代のものとほぼ同じような粒金と呼ばれる技法をマスターし、それをデザインとする多くのジュエリーを世に送り出した。そしてそれらにCの字を組み合わせた自分の刻印を付けた。これが近世におけるジュエリー・デザイナーのはじまりである。もちろん、彼が使ったデザインの源泉は言いようによっては模倣であるが、近世のジュエリーのデザインもまた模倣からはじまったのである。その後、彼の弟子とも言えるジュリアーノ一族なども加わまり、自作に製作者としての誇りと責任とを明示したジュエリーがここに誕生するとともに、ジュエリーのメーカーとしてのデザイン―という地位が明瞭になる。ジュエリー6千年の歴史になかで、デザイナーが認知されたのはわずか100数十年前のことにすぎないのだ。

奇々怪々な素材たち

観光旅行の流行や万国博などによる 英国人の生活の変化にジュエリーも対応

珍奇な素材を使ったジュエリーの登場

ヴィクトリア時代の中期頃から、英国生活パターンに変化が現れる。王侯貴族ではない新しい富裕層が台頭し、市民層にも生活にゆとりが生まれるにつれて人と物の移動が始まる。国内ではスコットランド、海外ではフランスとイタリアが主な旅行地であり、今で言う観光旅行のようなものが人気になる。そして、1851年に始まる万国博の恒例化により、世界各地からの文物た流入する。一方、ヴィクトリア時代の特徴である社会の建前主義の表れとして、喪の様式化が定着する。こうした生活の変化から

あるいはそれに応えるために、新しい珍奇な素材を使った一群のジュエリーがこの時代に登場する。

新しい客層に応えた一種のイミテーション

鉄はすぐに錆びる。しかし、歴史上、鉄で作ったジュエリーが存在する。ナポレオンとの戦争の戦費に困ったプロシア政府が、金などを供出してくれた国民に愛国者の印として交換に与えたベルリン・アイアンは鋳鉄で細かい細工を作り、その上に鉛や油で作った釉をかけてある。鉄ではなく木の化石を使ったのが、ジェットとボグオーク。共に黒に近い色で、主にモーニング・ジュエリーに使われる。さて新しい顧客が増えたのは事実だが、彼らは貴族たちほどには富裕層ではない。そうした客層に応えるために、一種のイミテーションに類する素材はこの頃登場する。金の代わりにピンチベックが、ダイヤモンドの代わりにマルカジットとカットスティールが登場した。ピンチベックは合金の一種、もっとも外見的には金に似る。マルカジットは鉄鉱石をカット・スティールは鉄鋼をダイヤモンドの形状にカットしたもので、全く錆びないのが特徴。まあ、これらは普通のジュエリーになった例だが、奇抜なのは、南米の虫だ。これは亀の葉虫と呼ばれる小さな緑色の虫だが、甲羅が異様なまでに硬い。これを内臓などを取り出して金の台にセットすると、ちょっと見には緑の七宝に見える。硬くて壊れないところから素材にしたのだろうが、虫と知らされて当時の女性は喜んだのだろうか。

愛する人の髪の毛を使ったヘア・ジュエリー

驚くのは、人間の髪の毛すらジュエリーに使われたことだ。編んだり、櫛で梳いたりしてジュエリーの一部に組み込まれている。言われなければ、わからないものも多い。お守りとして使われたのが、動物の、それも凶暴な動物の爪や牙だ。虎や熊の物が多く、これを使うのは、身に着けているとそうした動物の力が、乗り移ると考えてのことであろう。こうしてみると、昔の人々の方が、はるかに想像力に富んでいたのではなかろうか。

モーニング・ジュエリーの奇怪さ

死者を忘れない疑似機のひとつ 喪服の期間に着用するジュエリー

女王の服喪と重なったヴィクトリアン後期

「朝」のモーニングとは綴りが違う。「悼む」、「哀悼」の意味で、ヴィクトリア時代の社会規範のなかで最もやかましかった死者を弔うしきたりを表すキーワードである。

偽善性の強い建前社会のヴィクトリア時代にあっては、葬式とそれに続く服喪の日々の送り方や、死者を忘れない、あるいは忘れないふりをするための儀礼は、社会からの指弾を避ける上での重要な生活規範であった。もちろん1861年ヴィクトリア女王にとって最愛のアルバート公が急逝したことによる女王自身と宮廷の喪が重なったことも、この服喪を示すジュエリーがこの時期に大流行した理由として挙げられる。それにしてもいささか無気味なもの、それがモーニング・ジェエリーである。

貴重は黒、象徴的なモティーフと髪の毛

1840年頃から1900年前後まで、英国を中心にして盛大に作られたこのモーニング・ジュエリーには、実にさまざまな種類のものがある。基調となるのは、やはり日本と同じで黒の色である。黒表現できる素材、黒の七宝やジェット、ボグオーク、フレンチ・ジェットと呼ぶ黒のガラスなどが使われている。ジェットとボグオークは、共に古代の樹木の化石で、自在に彫りを入れたり成形したりすることができる。デザイン上では、白黒のカメオやミニアチュールなどに表現されたものが中心で、柳の木と壺の組み合わせが最も代表的なものと言える。日本でも柳に幽霊という組み合わせがあるが、柳の垂れ下がった枝の下に壺、つまり骨壺が置いてある絵柄は、すべてモーニングである。それはまだよしとして、最も奇抜で不気味な素材は髪の毛である。死者の髪の毛を切り取って保持するのは、遺髪と言って日本でもある風習だが、英国の場合にはただそのまま保持するのではなく、遺髪を編んだり、梳いたりしてジュエリーの素材とするのだ。髪の毛を編んだブレスレットとか、梳いてハートの形を描いたものをロケットにいれたものとか、まあわれわれの想像もしないような使い方を平然としている。余計なことだが、自分の死後に髪の毛をブレスレットにされて、死者は嬉しかったのだろうか?

まとめ

 この記事ではヨーロッパ宝飾芸術【ジュエリーデザイナー】について解説してきました。

次はベル・エポックの宝飾芸術ついて解説していきます。

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